人間

生きているだけの自分を認めるところから

みなさんは、普段の自分、あるいはもっと大きく捉えて、自分の人生に満足しているだろうか。

私は長い間、自分が嫌いだったし、人生に満足などしていなかったた。しかし、30歳が近づくとともに自分はそんなに悪くないのかも、むしろ良いところもあるかもしれない、と思い始めた。

とはいえ、人生最高!と胸を張って言えるということはないし、人生に満足していると100%言い切れる自信も、未だにないのは確かだ。それどころか、自責の念に駆られ落ち込むことも多々ある。

それでもやはり、以前より自暴自棄になる頻度や自身の存在価値について問う頻度が減った。

「生きているだけでいいや。全然OK。」というような一種の達観した気持ちが出てきたのだ。

正直、思春期の頃には将来の自分がこんなにおだやかな感情になるなんて、思ってもなかった。当時の自分に伝えることができたら、きっと驚く。ああ、自分も将来そんなふうに考えられるようになるのか、と。

当時は、将来のこと、学校のこと、人間関係のこと、家族のこと、いろんなことをぐるぐると考えていたが、どうも良い解決策や明るい未来像のようなものが浮かんでこなく、塞ぎ気味になっていた。

今も人間としてこの社会で生活する以上、ぶち当たる壁やどうしようもなくなって逃げたくなるような場面もあるが、以前とは違い、凹んでどん底に落ちるような気分になっても、「いや、ちょっと待て、なんとかなるんじゃないか?」という感覚が直感的に頭に降ってくるようになった。

では、なぜこのようになったか?

それは、曲がりなりにも人生を数十年(30年)生きてくる中で、それなりに辛いことや葛藤を経験し、ある時は希望の光が全く見えない暗いトンネルを彷徨うような気分になることもあったが、いつかはそのトンネルを抜けていた、という経験を積み重ねてきたからだと思う。

なので、若い世代に伝えたい。

人生、なんとかなるよ、と。

生きているだけでOK、という認識を少しずつでも意識して、生きてみませんか、と。

もちろん、絶望の渦中にいる時は辛いし、どうしようもなく思えることが多々あると思う。そんな時は、身の回りの大人や友達を、そしてこの人たちが頼りなかったり、もっと気分が落ちてどうしようもない時は医療機関、行政をぜひ頼ってほしい。身体が危険信号を発しているのかもしれない。

一人でああでもないこうでもない、と悩む時間も貴重であり大切であるが、限界がある。三人寄れば文殊の知恵という言葉があるが、裏を返すと人間が一人だけで考えられることはかなり狭い。簡単に視野狭窄に陥ってしまうのだ。

これは筆者自身も幾度も経験している。自分語りで恐縮だが、特に私は筋金入りの相談下手だということを実感しているので、「あの時、誰かに相談していれば」と思ったことは枚挙に暇がない。心の安全圏みたいなものが少なく、人に頼ることがなかなかできないのである。それでもなんとかやってきた。いざという時は上司に泣きつきそうにもなった。いや、取り繕った。実際泣きついた。

話は逸れたが、自分の身体も性格も、経年するごとに変わっていく、という認識を普段から持てていることが重要かと私は思う。

時間薬(じかんやく)が解決することもあるんです。

これはなにも、時間がただすぎるのを待つという受動的な意味ではない。

時間が過ぎるということは、身を取り巻く環境も当然変化するし、身に起こる出来事もたくさんあるので、これらを経験する中で自分も変わっていく。そして、それを経験した先の自分などは予想ができない。なので、どうせそれなら、今はただ生きているだけの自分も認めてやろうぜ、ということである。

そうすることで、自分に今後降りかかる出来事にも案外対処できる心構えみたいなものができるはずなんだ。

これは、未来に希望を持つとかいう綺麗事でもなければ、未来に絶望したりニヒリズム的になることでもない。